アニメにおける許せる嘘と許せない嘘
アニメを視聴する中で、最初から最後までハラハラドキドキと楽しく観ていられるアニメはたくさんあります。
しかし、その一方で「そんなわけないでしょ」とツッコミどころ満載で観る気が失せてしまうアニメも多くあります。
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全部楽しく視聴できるアニメと、幻滅して観る気を失くすアニメ。その違いはどこにあるのでしょうか?
この問題について、とあるアニメ作品を例に考えていきます。
と、その前にあらかじめ了承いただきたいのがひとつ。
この問題の答えは人によって見解が異なることかもしれないので、
あくまで筆者個人の見解として流してもらって大丈夫です(笑)
そのアニメ作品はSF・ファンタジー系の作品。
魔法が当たり前のように世の中に浸透している世界。
主人公の青年は世界の破滅に立ち向かいその剣の腕前を持って、大切な仲間、恋人を守るために奮闘していきます。
キャラクターの魅力は凄まじく、イケメンや美女揃いの面々。
人体の動きもかなり繊細に描かれていて、そのリアルさの質の高さは、日本のアニメーションとしては最高峰の技術が詰まっているのだろうなぁと容易に想像がつきます。
ストーリーとしても仲間とともに強大な敵に立ち向かっていく展開が面白く、まったくもって問題はありませんでした。
しかし、ある一つの描写が気になってしまい、全部見ることなく、テレビを消してしまい、それ以降その作品を観ようという気になれませんでした。
その一つの描写とは、アクションシーンで随所に見受けられた人間の力を超越したジャンプ力です。
ビルとビルの間をジャンプ、というかもはや「飛行」というか「ミサイル」のようにすっ飛んで飛び移ったり、地面からほんの少ししゃがんで勢いを付けただけでアホみたいな跳躍力を見せたり、、、おそらく時速数百キロは出ているかと思われるほど。
人間とは思えないぶっ飛んだ身体能力に筆者は一気に白けてしまったのです。
あれだけ人間の顔、形、動きのひとつひとつがリアルに描かれていた、、、にも関わらずです。
戦闘シーンではいきなり人間とはありえないほどの怪力を見せるのです。
「そんなに飛べねぇよ」と思わずツッコんでしまいました。
バットマンなら、マント。
スパイダーマンなら蜘蛛の糸。
みたいにそれなりに人体や慣性の法則を守った現実的な方法を用いているからスムーズに観ていられるのに、、、。
そのアニメ作品ではそこのリアルさがすっぽり抜け落ちてしまったかのような、忘れてしまったかのような印象を受けてしまいました。
魔法が世の中に浸透した世界自体もこの現代ではありえないわけですが、それは物語を語るなかで唯一許される大きなウソと言って良いでしょう。
実際、「魔法」を取り除いてしまうと物語自体が成立しないからです。
許せる「大きなウソ」に対して、どうしても気になってしまうのが「小さなウソ」なのです。
今回の例では、アクションを盛り上げるために自然発生してしまったありえない跳躍という「小さなウソ」が視聴者(筆者)を物語から置き去りにし、一気にしらけさせてしまったのです。
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今回の例以外にも、こんな映画を見たことはないでしょうか?
世界征服しに来た宇宙人と戦う主人公とヒロイン。
彼・彼女は戦う間に愛が芽生えていきます。ラブストーリーの展開もでてきたいいところで、彼は街が爆発し燃えている背景を後ろになぜか彼女に熱いキスを交わし、プロポーズの言葉を発する。「愛してる」、、、、。
「志村、うしろ!」とツッコんでおしまいです。
世界征服をしに来た宇宙人という大きすぎるウソは逆に気にならず、街が燃えている大変な状況下でプロポーズするという意味不明な行動にでる主人公という小さなウソ(ありえない出来事)が気になって仕方がなくなり、幻滅してしまうのです。
このように物語には大きなウソと小さなウソが存在します。
物語を成立させる大きなウソはついてもいいのですが、
だからこそ主人公やキャラクターの演技で嘘っぱちを決め込むことは許されません。
白紙の状態から虚構の世界を描くアニメーションであるからこそ、
描く人物の行動や言動にはリアルさを求めていくことが大切であることに気づかされました。
これは今後も数あるアニメ作品を見る見ないの選択にも使える重要なポイントではないかと考えます。